洋二郎作品のこと 2025後半 「私の洋二郎」



島村洋二郎の悲しみと喜びについて考えた        ひなつき みつか

2025.12.21

 

  

 

私が島村洋二郎にであったのはたぶん洲之内徹氏の名著「気まぐれ美術館」シリーズなのだろうと思うのだが記憶にない。本当に出会ったのは約30年前倉敷大原美術館でのことだった。前日の疲れか大原美術館がとってもつまらなかった。ただ疲れただけでミュージアムショップに入った。そこで手にした本の新刊案内に不思議な詩と絵があった。ペン画である。 

 

 それが、洋二郎の「月の夜に行きました」だった。 

 

なんだか、とても幸せそう。この裏にある大きな悲しみなんて気づきもしなかった。こういう詩画集なら読んでみたい。そう思っていったん忘れた。 

 

思い出したのの大原美術館で買った本を処分しようとしたときに新刊案内がでてきた時だった。やっぱりこの本が見てみたい。本棚の見えるところに新刊案内を置いたのだ。 

 

偶然ネット通販で古書「恋の絵画 島村洋二郎画集を定価で手に入れた。出版社に問い合わせたが、電話は使われていなかった。 

 

ペン画しか知らなかった私は、当初洋二郎のクレパス画に戸惑った。同じ画家の絵だよね・・・そこで終わってしまわなかったのが、偶然だった。本物を見る機会に恵まれたのである。場所はギャラリーびーた。イベントの会場にあった絵葉書に洋二郎の名前があったのだ。 

 

当日はギャラリートーク。早めに行った。やっぱり本物は違う。すんなり私の心に洋二郎が語り掛けてくるようだった。「私の絵、人生、どう思う?」と。まだその時には回答はでなかった。 

ギャラリートークに知り合いがたくさん来てそれも驚きだった。 

 

ギャラリートークが終わった夕方、洋二郎の油彩を外からじっと眺めていた。答えはこの日は出なかった。 

 

その洋二郎からの問いかけは、一旦は忘れてしまった。 

 

その後、キッド・アイラック・アート・ギャラリーで洋二郎の覚書ノートのコピーに対面した。その中に「月の夜に行きました」はあった。ノートを何回も夢中で見た。これは洋二郎の入院中の夢そのものだったのだ。叶わなかった夢・・・家族を持つこと、画家・詩人として成功すること。子どもが育つのを見守ること。 

 

洋二郎の入院中に一家は離散。妻君子も次男鉄もアメリカに渡った。 

 

 夢は叶わなかったけれども洋二郎には絵を描くことと友情だけが残った。 

 

 簡易宿泊所で咳をしながら夜中も絵を描き続ける。モデルは同宿の人々内緒で描いたのだろう。モデル代なんてないのだから。生きるのもやっとな洋二郎に病魔は時間を与えなかった。 

 

 洋二郎が亡くなって60年以上経つ。絵は残った。そう思うと洋二郎は幸せな画家なのかも知れない。なん残さ死んでいく人たちが多いのだから。 

 

 洋二郎の気持ちは長いこと行方不明だった妻君子と次男鉄に奇跡的に届いたのだ。私も驚いたが、うれしくなった。きっと洋二郎は喜んでいるに違いないと思う。どん底を見た人に何かが幸せを与えたのだ。 

 

 

 わたくしごとであるが、結婚を控えている。もう私も60歳近い。彼もどん底を見た人だ。だから周囲の猛反対に遭っている。でもそんな彼だからやさしい。やさしいだけで古本とCD以外なんにも持っていない人だ。ずっと布団に入っている。体調が悪いのか?訊くと「怠け者なだけだよ」という。いっしょに夕ご飯をしたいと帰りの遅い私を待っていてくれる。二人で夕ご飯が幸せな時間だ。誰も祝福はしてくれないだろうが、洋二郎に話せばきっと祝福してくれると思うのだがどうだろうか? 

 

 私の幸せも洋二郎の作品の中にあると思うのだ。 

 

 

 



島村洋二郎、坂井信夫と山本陽子  長谷川政國

2025.10.31

 

 

『洲之内徹ベスト・エッセイ』(ちくま文庫)の解説で、椹木野衣は、「戦後美術批評の御三家と呼ばれた針生一郎、中原佑介、東野芳明」と書いている。

1956年、サトウ画廊で行われた『島村洋二郎遺作展』の参会者名簿には、東野芳明の名がある。東野の師ともいえる、すでにして、美術批評のカリスマとなっていた瀧口修造の名もある。

二人は洋二郎を絵を、どのような想いで視たのだろうか。

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洲之内徹の『気まぐれ美術館』シリーズは、単行本が刊行されるたびに、愛読していた。

島村洋二郎との出遇いは、『さらば気まぐれ美術館』所収の「〈ほっかほっか弁当〉他」を読んでいた時だった。

 

五月初め頃(昭和62年)の某日、「見ていただきたい絵があるのですが、いつお伺いしたらいいでしょうか」という、ちょっと強引な感じのする電話が、島村直子と名乗る女性から画廊へ掛かってきた。そして数日後のある日、夕方になって、その人が画廊に現れた。背の高い、精悍な顔立ちの、三十代と思われる女性である。

 

島村直子、見覚えのある名。洲之内の的確な人物描写は、あの島村直子そのものだ。新卒の頃の玲瓏たる風姿が浮かんできた。

それにしても、いきなり洲之内に電話とは、ああ、なんと、怖れ知らずの、見上げた度胸。

こうしてすべてが始まったのだ。

 

             *

 

『彷書月刊』という雑誌があった。毎号、正系より異端の特集を組んだ。人物なら、反骨のはぐれ者・はずれ者が対象となった。

編集長は田村治芳。古本屋をなりわいとし、自身、詩を書いた。売れない同人誌や自費出版の詩集も扱っていた。

その『彷書月刊』の催事案内に、アユミギャラリーでの『島村洋二郎展-生まれ育った街神楽坂で』(2008年)が載った。つづいて、同誌に、『眼の光 画家・島村洋二郎』刊行の広告が載った。

この本の共著者は、坂井信夫。なつかしい名だ。1960年代後半から1970年代にかけて、吉本隆明の『試行』や北川透の『あんかるわ』に、鋭い批評を寄稿していた。そして、なによりも、同人誌『あぽりあ』(1966年創刊)を代表する詩人。(筆者も同人詩誌『騒騒』(1968年)を学友三人で創刊している)

『彷書月刊』の田村と『あぽりあ』の坂井は、“詩つながり”があったのではないか。

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『あぽりあ』には、もう一人、山本陽子という日本詩史にとって、稀有な異形の光跡を残した彗星のような詩人がいた。(坂井らの尽力により4巻の全集が出版されている)

『あぽりあ』という発表の場だけに依拠して、詩作にしがみつき、詩の極北をつきぬけ、やがて、自分自身の言葉・身体まで壊し、ついには、詩とともに自爆・破砕し、詩魂も果てた。

そののちは、食うために、ビル清掃員として働き、三畳ひと間風呂トイレ共同の劣悪なアパートを、安住の終の栖とした。酒が手離せなくなり、肝臓を痛み、死去。享年41。

遺品には、三十枚ほどのパステル画の自画像があった。洋二郎との不思議な符合。

山本陽子に信用され、いちばんの理解者だった坂井信夫。島村洋二郎の境涯に、山本陽子の境涯を重ねてみていたのかもしれない。

山本陽子鎮魂の書ともいえる坂井信夫『〈ことば〉を壊す詩人たち』(花鳥社)は20242月に出版された。

この本の重みとおもむきは、『カドミューム・イエローとプルッシャン・ブリュー』と見事に拮抗している。

 

 

 

 



少年の眸 山本萠

2025.8.21


       

 

ここ数年の私のカレンダーは、クレパスが主であるが、しごとが白と黒の書の制作なので、気分を変えるためには現在、多色のクレパスが面白い。その上、油彩などに較べ材料も準備も簡素なのがいい。画面がテカらないのもお気に入りだ。ただクレパスを巻いている紙を外して使うので、手は汚れでベタベタになってしまう。 

 

今年の冬から春にかけて多忙が続き、やむなく六、七月の猛暑期に画を描いた。溶け出しそうなクレパスにはホトホト困惑した。紙上にはいつもの、表面上の何かが剥落してゆくような、あの、渇いた表面感が案の定現れてこなかった。それでも毎日のように集中的にクレパスを握った。視力がどんどん弱まっていくのを感じながら、白い紙を塗り潰していった。このまま続けると失明するのではないかと怯えつつ、手からはクレパスが離れない。

 

徐々に見えづらくなってゆく目の隅のどこかに、(おもかげ)もおぼろな画家島村洋二郎(19161953)がいるのを私は知っている。洋二郎は私のように中途半端な泣き言は吐かなかった。いかに手が汚れようとも、彼には安価なクレパスしかなかったのだ。

 

洋二郎最晩年の頃に、集中的に描いた多くのクレパス画の中で、ことに私が心惹かれたのは《忘れられない(ひと)》や《山本次郎像》《君子像》《猫と少年》《自画像》《少女像》等いろいろあるが、初めて詩誌の印刷で目にした《少年》は強烈な印象であった。この作品については以前にも短文で触れたことがあるが、初見は詩人坂井信夫さんの詩誌『索』誌上だったと思う。それまで洋二郎の名前さえ知らず、その冊子をパラリと開いた私に、画中の少年が強い求引力で何ごとかを告げたのだった。この作品は、ゴッホの自画像に似ているとも指摘されているが、ここでは措いて、少年のまっしぐらなまなざし、引き締まった顎、何か決意に満ちたような口もと。それから後方へと張り出している丸い後頭部、と私の目は往き交う。その作品が、洋二郎が亡くなる少し前に描かれたクレパス画だったとは。

 

その後まもなく原画を目にすることになるが、目に染むようなバックのブルー以外、白と黒のモノトーンの色調であったことにも驚かされた。モデルの少年は、長男の林冬人氏かと思えるが、その少年の相貌に託しての、自身の生への明白な表明であったに相違ない。島村洋二郎は、宿痾である結核を悪化させつつも、決して生きることを諦めてはいなかったのだ。簡易宿泊所に起居し、吐血を繰り返しながらも激しく手を動かして、同じく貧苦にまみれた同宿人たちをクレパスで描いた。激しくも静謐なマチエールの《少年》は、永遠に澱むことのないその眸で、観る者の生をも衝ち続けている。

姪に当たる島村直子さんの、それこそ半生を賭けた尽力によって、残され、各地で発見された数々の洋二郎作品の前で、私はただ黙禱する心地で佇ち尽くすばかりだ。                     

                               詩人

付記

 

クレパス画《少年》のモデルの、洋二郎の長男である林冬人氏(19422014)にも、千葉県柏市ハックルベリーブックスでの「島村洋二郎展」でお目にかかることが出来、記念写真を並んで撮ってもらったこともあった。俳優緒形拳似の、内省的な面差しの素敵な存在感溢れる方で、展覧会後病がみつかり、まもなく亡くなられてしまったことは無念でならない。彼は八丈島在住の写真家で、絵葉書にもなっていた海の写真の、恐ろしいまでの特筆すべきその迫力も忘れ難い。父である洋二郎の、芸術家としての血筋を強く引いていた人だったのだろうと思われる。

 

 



水蜜桃(すいみつ)の日   武田 桂

2025.7.29

 

   100年 経っても

   変わらない

   それがあいつさ あいつ

   時代の 気色(けしき)に

   馴染めない

   それがあいつさ あいつ

   鳥たちも あの猫も

   自由じゃないと

   月をみつけ

   手を振る

      それがあいつさ あいつ

   人間だけだよ

   自由だと

   むなしく 風を追いかける

   それがあいつさ あいつ

   形ある ものはすべて

   消えてゆくよと

   月を見つけ

   ニンマリ

 

   それがあいつ